こんにちは
国の重要文化財なのに
オークションで落札されていて驚いた
川崎百合ヶ丘・美容室ブランカのまりです
いいの
手数料込み2億4390万で落札された、
法然の臨終などが描かれた「絵本著色拾遺古徳伝 巻第八」は個人の所有だったそうです
ちなみに国宝や重要文化財を売却するときは相手や売却額を国に報告する義務があるそうで、その際は国が優先的に買い取ることができるそうです
ちょっと前ですが私も大好きな
文化財の超大スターである
フィンセント・ヴィレム・ファン・ゴッホ氏
Vincent Willem van Gogh
(1853年3月30日 – 1890年7月29日)
の展覧会に行ってまいりました
ゴッホ氏最大の個人収集家といえばヘレーネ・クレラー=ミュラーさん(1869-1939)ですが、
きっかけは彼女の美術教師がゴッホ氏を高評価していたからだそうです
1908年初買い「森のはずれ」からおよそ20年間で、
93点の油彩画と174点の素描と版画3点を収集されました
東京都美術館では12月12日まで
彼女が初代館長を務めたクレラー=ミュラー美術館のコレクションから、ゴッホ氏の油彩画28点と素描・版画20点が展示されています
予約制でしたが激混みでした
流石ゴッホ氏
素描も丁寧に書き込まれており初めて拝見する画風も多く
短い生涯の間に燃えるように研鑽し書き続けた姿が伺えます
以下はHPに掲載されている画をお借りしております<(_ _)>
オランダ時代
1880年8に画家となる決意をし 翌年から素描に尽力されました
収穫する人の作品が目立ちました
スヘーフェニゲンの魚干し小屋 1882年
ゴッホ氏考案?パースペクティブ‐フレーム技法、この画は
カンバスと同じ比率の木枠に、格子状または放射状に糸や針金を張ったものを通して対象物を見る遠近法に挑戦したと思われます
砂地の木の根 1882年
1883年12月に移り住んだオランダニューネンの地で
暗い色調が特徴のバルビゾン派やハーグ派の画家を手本とし
いとこから学び、油彩画に着手します
麦わら帽子のある静物 1881年
森のはずれ 1883年
ヘレーネさんが1908年に初めて購入したゴッホ氏の作品!
私なら良さがわからず買わない💧
感性豊かなへレーヌさんも時代から選ばれし人
この後以下の画を3番目に含み
織機と織工・女の顔・テーブルに着く女
・リンゴとかぼちゃのある静物・鳥の巣
と様々な室内の暗さを深い緑で描いた
6作品が続きます
白い帽子を被った女の顔 1884年~1885年
1886年2月末、弟テオ氏を頼り、パリに移ったゴッホ氏は約2年で点描技法など表現を刷新しました
レストランの内部 1887年夏
石膏像のある静物 1887年後半
1888年2月20日アルルに居を定めましたゴッホ氏は
南仏の明るい空の青と、鮮やかな太陽の色素のひとつである黄色の
組み合わせに熱心に取り組みます
糸杉に囲まれた果樹園 1888年4月
レモンの籠と瓶 1888年5月
種まく人 1888年6月
1889年5月にサン=レミ郊外にある療養院に自ら入院し
有名な糸杉やオリーヴ園などプロヴァンスのモティーフに
取り組むようになり
1年後に退院して北仏のオーヴェール=シュル=オワーズに移りました
サン=レミの療養院の庭 1889年5月
亡くなる2か月前の作品でハーグ時代に救貧寺院にいた退役軍人を描いたリトグラフを元に制作したとのことです
悲しむ老人(「永遠の門にて」) 1890年5月
ゴッホ氏といえばこのタッチが有名ですね
夜のプロヴァンスの田舎道 1890年5月12~15日
花咲くマロニエの木 1890年5月22~23日
勝手に思うだけですが、書き込んでいない感じが、病を癒すためにただ筆をすすめたように思えます。
ゴッホ氏を世界に送り出したと言っても
過言ではないへレーネさんより、
ご親族のファン・ゴッホ家のファン・ゴッホコレクションが圧倒的に最大です。
数多くの作品は弟テオ氏から妻ヨーさんと息子フィンセント・ウィレム氏が継がれ、200点を超える油彩画、500点ほどの素描、膨大な手紙、ほかの芸術家の作品群などを含むコレクションは、1973年アムステルダムに開館した
ファン・ゴッホ美術館に
以下2作品も含め永久貸与されています
サント=マリー=ド=ラ=メールの海景 1888年6月
ゴッホ氏が海を描いていたことに驚いたと共に
サインも入り、気分が良い感じが伝わりました
黄色い家(通り) 1888年9月
ゴッホ氏は「木の根と幹」を描いた後
1890年7月29日に亡くなります。
ピストルによる自殺となっておりますが、
瀕死な状態なのに時間をかけて自宅まで帰るのか?
また、右利きのゴッホ氏が左腹部を拳銃で撃つことは困難であり、
ウィリアム・デフォー氏がゴッホ氏を務めた
映画でも少年2名による犯行でした
個人的な見解ですが、
ゴッホ氏は衣食住生活は弟さんにより
最低限守られていました。
飢餓は別ですが、
守るべき事や家族、
夢中になるもがあれば
漂うようになんとか生きてやり過ごせるような気がします
甘いでしょうか
ゴッホ氏が亡くなってからヘレーナさんは
1913年ハーグ展覧会で150点の公開はじめ
1927年 バーゼル・ベルン・ブリュッセル展覧会
1937年NY近代美術館 フィラデルフィア ボストン ゴッホ展
1938年クロラ=ミュラー美術館と
立て続けに貸し出しをされ、
公開されたゴッホ氏の才能が完全に認められ
人気に火がつきました
1958年日本でも
東京国立博物館と京都市美術館で
展覧会が開催されています
彼女の収集が実を結びました
正式名は東叡山寛永寺、
東の比叡山の意味があり
伝教大師最澄様が宗祖である天台宗・比叡山延暦寺を見立ています
創立者の家光の時代からは徳川家の葬儀や埋葬などもおこなわれるようになり、東京都港区の増上寺とともに徳川家の菩提寺として知られるようになり、皇室から山主を迎え輪王寺宮上野寛永寺の発展に大きな影響を与えましが、明治維新後寛永寺の境内の土地は没収され、還俗して北白川宮になりました
ここには徳川15代将軍のうち4第家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、18代家定、6名の墓所であり、
家綱の厳有院霊廟(げんゆういんれいびょう)、
綱吉の常憲院霊廟(じょうけんいんれいびょう)は旧国宝に指定されていましたが昭和20年の空襲で多くを焼失しました
徳川慶喜公の墓は谷中墓地(寛永寺墓地区域)にあり、
華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表し、自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言から
円墳状の墓が建てられました🙏
そして
ゴッホ氏は最後に住んだパリ近郊の小さな村、オーヴェル・シュル・オワーズの墓地で弟テオ氏と並んで眠っておられます
この後すぐに展覧会の画のコラージュをつくり
店舗兼自宅1階の廊下に飾りました
死は誰にでも訪れる・どう生きるのか、
これを見れば否が応でも背筋が伸びます
神戸で訪れたゴッホ展を書いてました↓
これは短いですよ